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青田七六ガイド付きツアー

1930年代に多く見られた和洋折衷の日本家屋

青田七六-モデル

明治維新以降、日本は建築においても「脱亜入欧」をスローガンとし、その水準をヨーロッパ並みに高めることを目指しました。その動きの中、台北は格好の実験場となりました。台湾総督府(現総統府)や台北医院(現国立台湾大学医院旧館)、台湾総督府博物館(現国立台湾博物館)、台北州庁(現監察院)、台北公会堂(現中山堂)などの建物はこのような計画のもとで造営されました。一方、昭和期に建てられた日本家屋の多くは和洋折衷様式であり、従来の日本家屋に比べ、居住性が重視されていました。

もっとも左側にある扉は左右に開くスタイルで、一見して奥に和室(居間)のあることが分かります。昔の写真を見ると、実際は外側にブラインド方式の扉があり、洋式の扉と同様、引いて開けるものだったことが分かります。北側には玄関があります。台湾の伝統家屋の多くが左右対称の建築であることを考えると、こういったアシンメトリーのスタイルは大きな個性が感じられます。また、この建物は日本建築ですが、西洋建築の要素も取り入れられていることが分かります。人呼んで「洋服を着た日本人」のようだとも言われています。

青田七六の家屋を眺めると、車寄せの小さな雨よけに始まり、応接室の外側に洋館建築で散見できる出窓があります。これは台北市西部の貴徳街にある陳天来旧居の建物に酷似したものです。しかし、ここの出窓はひし形のガラス窓で、より優雅な雰囲気を醸し出しています。さらに左へ回ると、書斎の外側にブラインドが見えます。これは金門や厦門の洋館でよく見かけますが、伝統的な日本家屋にはあまり見られません。これは台湾の気候が日本よりも暑く、日差しよけ、さらには雨よけの意味があったと推測されます。

当家屋の設計は北海道出身の足立仁教授によるもので、1931年に建てられました。すでに80年あまりの歴史を有しています。

家の前のプラットフォーム、修理するときは頁岩を使用します。

この家には、第二次世界大戦後に馬廷英教授が住んでおり、世界で非常に有名な地質学者です。

この岩石の壁は三つの部分に分かれます。真ん中は台湾各地の岩石の標本で、下段は世界各地の岩石標本です。

地上に並んだ石塊は世界各地の石材のサンプルです。台湾の岩石は建材には適しません。これはプレートで押し出される方向が多すぎ、節理面が不統一なためで、石材にすると亀裂が入ってしまうからです。清国統治時代末期から日本統治時代まで、台北の建築物には、内湖地区の砂岩、または観音山の安山岩が主要な用材となってきました。

岩石土壌の地底世界だけでなく、地表の植物にも目を向けてみましょう。ここには台湾で見られる366種の花をモチーフにした図案があります。私たちは一日ごとに生まれた人の個性によって、花言葉を添えました。ユニーク、かつカスタマイズ化されたギフトとして親しまれています。

台湾岩石の標本壁、プレート運動の活きた教室

青田七六-台湾の岩石標本

台湾各地の岩石の標本

台湾はユーラシアプレートとフィリピン海プレートが接する場所に位置しています。地球の巨大なプレートはまるで一枚の紙のようです。台湾島は海洋プレートが下に向かって沈み込んだ結果、隆起して形成されました。その後、地底の岩漿が噴火し、火山地質が形成されました。この時、プレート運動の押し出しによって組成されたのが変質岩です。これが河川によって洗い流され、浸食を経た後、堆積地形ができました。
大まかに言うと、台湾北部の陽明山一帯と澎湖島は火成岩、台湾東部は変質岩、台湾西部には沈積岩が多く分布しています。しかし、岩石標本の分布から見ると、台湾各地で火成岩や沈積岩、変質岩のいずれもが分布しています。さらに、台湾の地質の多様性が複雑な地層分布の形成を物語っています。

プレート運動

地上に並んだ石塊は世界各地の石材のサンプルです。台湾の岩石は建材には適しません。これはプレートで押し出される方向が多すぎ、節理面が不統一なためで、石材にすると亀裂が入ってしまうからです。清国統治時代末期から日本統治時代まで、台北の建築物には、内湖地区の砂岩、または観音山の安山岩が主要な用材となってきました。

岩石土壌の地底世界だけでなく、地表の植物にも目を向けてみましょう。ここには台湾で見られる366種の花をモチーフにした図案があります。私たちは一日ごとに生まれた人の個性によって、花言葉を添えました。ユニーク、かつカスタマイズ化されたギフトとして親しまれています。

台湾の構造運動

日本庭園の植物たちと南進政策

前庭は応接間に向かい合い、ここには観棕竹が植えられています。これは足立教授が暮らしていた頃にはすでに植えられており、馬国光先生によると、前庭には燈籠花と呼ばれる花が植えられ、ここのシンボルとなっていたそうです。玄関付近では、夏には香りの良い七里香(ゲッキツ)、秋にはキンモクセイが咲き、花壇にはジャスミンや夜来香、白いバラが植えられていました。これらは足立教授の好みで、庭の随所で花々の香りを楽しむことができたと言います。

青田七六-前庭の観棕竹
観棕竹

前庭には高くそびえるマンゴーの樹が今もあります。南国では定番と目されるシュロやソテツもあり、門を入って左側にはセイロンオリーブや楓香樹が見られます。さらに裏庭には高くそびえ立つ大王ヤシがあります。そして、往時はコーヒーの樹も植えられていたそうです。

青田七六-裏庭の大王ヤシ
青田七六-裏庭の大王ヤシ

南進政策は当時、日本の国家政策でした。中国大陸の南部や台湾、東南アジア(南洋)などの地域に日本は進出していきました。これは台湾を戦略的基地とし、アジア経済の命脈を掌握しようというものでした。そのため、台湾では積極的な経営が行われ、医学、商業、農業などあらゆる面で成果を上げました。現在、国立台湾大学の傅園と台湾南部の美濃にある黄蝶翠谷は、当時の日本人が東南アジアや南洋の植物を研究する際に設けた植物園です。現在も国立台湾大學の構内には植物標本を展示した温室があります。

青田七六-楓香樹

足立仁教授は甘蔗栽培における土壌の改良を進め

化学農薬ではなく、有機堆肥を利用した栽培方法を研究していました。この家屋の後方に暮らしていた磯永吉教授は、陽明山の竹子湖で「蓬莱米」の試験栽培の研究に没頭していました(磯永吉教授の旧居は高層建築に建て替え済み)。また。現在の青田街9巷に暮らしていた馬場為二教授は蔗糖を細菌の発酵に利用することを研究していました。そして発電機を用いて飛行機の燃料を作ろうとしていたとも言います。いわゆる現在のバイオ燃料と言うべきものです。彼らは非常に先進的な研究を行なっていました。現在から見ても画期的な研究と言えるものでしょう

縁側にある長い廊下はサンルームにもなっています。五本の洗い上げ仕上げの柱や床はすべて当時のもので、デザインも往年のままです。これは時代の先端を行くものでした。足立仁教授の子息によると、当時は透明な材質を用いた屋根で、陽光が燦々と降り注いできたということです。
サンルームの外側にはプールもありました。これは足立仁教授が子息の身体を鍛えるために設けたものです。その結果、子息は後に水泳選手となり、大会でメダルを授かったりするほどになりました。

後ろにあるレンガ造りの平屋は、当時、防空壕がありました。壁は約70センチの厚さがあり、現在も日本から輸入された耐火レンガが残っています。このレンガには英文字が刻まれています。1960年代、ここには馬廷英教授の妹が暮らしていましたが、その頃にプールや防空壕は取り壊され、部屋が増築されました。つまり、現在の姿になってから、すでに50年の歳月が経っています。

リビングスペース

デザイン

まずは廊下を観察してみましょう。この廊下は日本家屋の標準規格とされる120センチの幅となっています。いくつかの扉に注意してみると、これらは押して開く様式のもので、非対称であることに気づかされます。片側が大きく、もう一方は小さくなっており、上部にはひし形のすりガラスがはめ込まれています。見た目は地味ですが、これにはさまざまなアイデアが隠されています。

台北帝国大学(現国立台湾大学)について考えてみると、大学が設けられた当初、巨大な正門は設計されませんでした。警備員室に付随した形の門があり、この両側から構内に出入りしていました。そして、ここからはまっすぐに聳える同学のシンボル・椰子並木は見られません。門に入ってからしばらく歩くと、各校舎が見えてきます。どの教室も入室して初めて内部が分かるという構造で、外側から眺めても様子は全くわかりません。しかも、外壁についてもとても地味なものになっていました。

この家屋の扉は高さがすべて180センチとなっています。壁の上部にはランプがあり、壁の中にはめ込まれています。これは内側に空間を設け、電線が壁に埋蔵されています。ランプが点灯すると、二つの空間が使用できます。日本家屋は仕切りが多く、場所によっては薄暗くなりますが、ここの場合、ランプをつけることで、二つの部屋が同時に明るくなるという設計になっています。

部屋を一つ一つ観察すると、部屋には少なくとも二つの出入り口があることに気づかされます。子供たちは家屋内でかくれんぼうをするのが大好きだったそうです。それは動き回るだけでなく、隠れ場所を探し出す楽しさがあるからでしょう。一つのランプを共用する以外に、部屋の納戸も二間で共用していました。馬廷英教授の長男の馬国光さんによると、台所の床下にも収納スペースがあったそうです。このように限られた空間をとても有効に利用していることが分かります。

廊下の右側は家屋の西側に位置しています。この西側は通常、水を用いる空間に利用されていました。お手洗いや台所、浴室などは湿気を伴う場所なので、西日が当てることで乾燥した状態を保つ工夫が施されました。

青田七六-玄關
青田七六-玄關
青田七六-ランプ
青田七六-ランプ

廊下の突き当たりまで進むと、左側に縁側(広縁)が見えます。一般的な日本家屋では、このような180センチもの広い縁側があることは多くありません。これは日差しが強く、暑さも厳しい台北の陽気に合わせ、涼風が通ることを見越して設計されたものと推測されます。

南側では長い廊下に目が引きつけられるはずです。格子模様のガラスが寝室まで延び、突き当たりの角にはシンプルなデザインの横格子の扉があります。左側の扉と窓も同じような整然とした格子模様です。扉はいわゆる日本式ではありませんが、和洋折衷の長い廊下には日本らしさが感じられるはずです。玄関から応接間までは洋風の造りなので、異なる雰囲気が楽しめます。

青田七六-改修前
青田七六-改修前

デザイン

青田七六-広縁

日本では明治維新以降、大正時代から昭和に至るまで、家屋の大幅な洋風化が進みました。そして、従来は接客重視だったものが、次第に暮らしの空間が重視されるようになっていきます。この家屋も最も奥まった場所に座敷がありました。さらに子供部屋があり、部屋の扉はすべて一カ所に集まっていました。外には高くそびえる樹木があり、夏の日差しが室内を照りつけることはなく、涼風が通っていく造りとなっています。冬の午後には西日が入り込み、精巧な手作りガラスの痕跡を見ることができます。

座敷の外面には昔ながらの雨戸があります。台風などが襲来した際には一枚一枚雨戸を引き出しますが、これによって縁側は真っ暗になります。ここにはどんな秘密が隠されているのでしょうか?

私たちがこの家屋の修復を始めた時、一部の縁側の扉の下にはガラスがありませんでした。これは猫が出入りするための通路で、一枚の布で蚊や虫が入ってくることを防いでいました。この家では猫をたくさん飼っており、一匹のオスのボス猫は近所のたくさんの雌猫と関係を持っていたと言います。彼は年をとってから、玄関で寝そべって外を眺めるのが好きだったそうです。

上部については、空襲の際、灯りが漏れるのを防ぐため、光を通さない黒紙や布が張られていました。現在もこれらの痕跡を見ることができます。よく見ると、柱の上には落書きや年代の古い陶製スイッチなどがあります。これらに触りながら、この家で起きた数々の物語を想像してみましょう。歳月と記憶が交差する中で面白い体験ができるはずです。宮崎駿のアニメに出てくるような昔懐かしい日本家屋の情景が思い浮かんでくることでしょう。

青田七六-広縁
広縁
青田七六-手作りガラス
手作りガラス
青田七六-雨戶
雨戶
青田七六-畳

日本人は部屋や庭を設計する際、決まって腰を下ろして案を練ったといいます。確かにお座敷に座ると、リラックスした気持ちになれるでしょう。庭の風景を眺めながら、空間の配置や設計について考えてみると、またひと味違った体験ができそうです。
畳敷きの部屋は以前、二間ありました。お座敷と次の間と呼ばれ、それぞれ八畳と六畳でした。畳は一枚が幅90センチ、長さ180センチ、厚さ5センチ、面積1.62平方メートルの伝統的なサイズです。商店は大部分が五畳半で、茶室は大部分が四畳半です。サイズの異なる畳を組み合わせて敷いています。

畳を間違った敷き方にしてしまうと、風水では災いがもたらされると言われています。畳は格子式に敷いてはならず、四枚の畳の角が一カ所に集まってもいけません。畳の敷き方は神道の宗教儀礼や茶道などにも関係があります。現在の台湾でも、畳が敷かれた和室を擁した家があります。

この家屋にも子供部屋がありました。外側にはブラインドがあり、扉を閉めれば、とても安全な空間に変わります。子供部屋と居間の納戸は共用で、赤ちゃんが泣いたときにはその泣き声が居間にも聞こえてきたはずです。

1947年、当時23歳で大学を卒業したばかりの国立台湾大学外国語学部の齊邦媛教授も短期間、ここに暮らしていたことがありました。当時、馬廷英教授は台北帝国大学の接収に携わっていました。中国各地の人材が招聘され、国立台湾大学で教職員を務めることになりました。このほか、反対意見もありましたが、一部の日本人教授は留用され、国立台湾大学で教鞭を執っていました。彼らは体制が変わった後も、引き続き台湾の学術界の発展に大きく寄与していました。

お座敷の隅にある空間はいったい何でしょうか。ここは納戸です。納戸の上は子供部屋に繋がっています。下段は布団や蚊帳を置く場所で、上段は家宝などを置く場所でした。ここには日本刀など、比較的大きな物が置かれていたと言います。

上部の「欄間」の木板。これは二つの部屋の通気をよくするためです。これは最初に部屋を調査したときには見あたりませんでしたが、近所に暮らす俞さんという方が親切にもプレゼントしてくれました。この一帯の家屋はサイズがほぼ同じなので、多くのものが共用できます。

青田七六-贈り物

この家屋を修復した際、私たちは歴史の歩みをできるだけ残すようにしました。古くても使えそうなものは古くても残し、本来の設計と外観を保つように努力しました。つまり、入手が困難な材料に限って、現在手に入るもので置き換えることにしました。たとえば、当時の手透きガラスは壊れており、同じものがどうしても入手できなかったので、現代ガラスに換えることになりました。

青田七六-馬廷英教授息子の落書き
馬廷英教授息子の落書き
青田七六-馬廷英教授息子のCD紙ケース
馬廷英教授息子のCD紙ケース
青田七六-床の間
床の間

慢步華新街-在台北尋找緬甸風味

沿途景點
南勢角捷運站 、中和社區大學(室內導讀+特納卡體驗+涼拌茶葉體驗)、華新街市場、緬甸街

 

所謂的「緬甸街」,位於中和華新街,包含聚集緬甸移民的街道與巷弄。

1960年代緬甸發生嚴重排華事件,許多緬甸華僑因此移民至台灣,至1980年代逐漸形成聚落,擁有其獨特的飲食習慣及語言。在彷彿置身緬甸的街上,您知道中緬雙語招牌上的貓頭鷹代表什麼意思嗎?您知道魚湯麵是什麼做的嗎?

在大台北地區生活的您,是否曾經駐足此地,好好地坐下來感受周遭氛圍呢?跟著我們來趟異國風情之旅吧!

(照片與插畫取自 鳴個喇叭文化工作室 官網)